尼子晴久
尼子晴久
尼子 晴久(あまご はるひさ、永正11年2月12日 (旧暦) 2月12日(1514年3月8日) - 永禄3年12月24日 (旧暦) 12月24日(1561年1月9日))は出雲国 出雲の戦国大名。尼子経久の孫 嫡孫。
父・尼子政久が若くして戦死していたため、1537年、24歳にて祖父・尼子経久より直接に家督を譲られる。
家督相続の前後より、東部方面への勢力拡大に奔走しており、美作国 美作、備前国 備前を攻略して、播磨国 播磨にまで侵攻した。
1538年には上記三ヶ国の守護・赤松晴政を淡路国 淡路へと敗走させ、あくまで従属を拒む別所就治の三木城を攻撃した。
この東部方面への侵攻は京都の室町幕府に対し、尼子氏の存在感と軍事力を見せつける示威行動であった可能性が強く、状況によっては上洛さえ視野に入れていたことが当時の史料からうかがわれる。結局、三木城の攻略に失敗したため、上洛は未遂となったが、吉田郡山城の戦い 吉田郡山城での敗戦までは、播磨国 播磨にもかなりの権益を確保していた。
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