徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、江戸幕府第二代征夷大将軍 将軍(在職1605年 - 1623年)。
継室:織田信長の姪・於江(崇源院)
側室:神尾栄加の娘・お静(浄光院)}}
武田信吉、松平忠輝、徳川義直、徳川頼宣、
徳川頼房}}
千姫、珠姫、勝姫 (天崇院) 勝姫、初姫、#秀忠の子 ほか養女多数}}
徳川家康の三男として生まれる。母は側室の西郷局。同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・松平信康 信康は秀忠の生まれた年に死亡、次兄の結城秀康 秀康は豊臣秀吉の養子に出されて結城氏を継いだので、秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。1590年、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。1595年には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市)と結婚。1600年の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めに時間を奪われて9月15日(西暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。(ただ、この件に関してはあえて兵を関ヶ原に遅参させることで徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もある。また、家康の当初の命令が信州平定であり(このときの命令書が残っている)秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の家康からの本隊への合流命令が豪雨による川の氾濫のため届いたのが9月9日であり9月15日の関ヶ原にはすでに間に合わない状況だったという説もある。)
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